生まれつきの盲人のいやし(2)

前編を見る

ヨハネによる福音書9:1-12(2)

原因が結果を生むのならば、それを受け入れるだけならば、ただの運命論です。キリスト教は運命論ではありません。原因は結果を生む。のではありません。原因は、目的を生むのです。それがキリスト教の考えです。過去の原因を考えるのではなく、今置かれている状況、今の自分自身の状態、この今の自分自身に、神様の目的と計画があるのだと言う事に気づいた時に、私達の生き方は新しく変わるのです。

20世紀の人物でヘレンケラーという人がいました。1882年、2歳のときに熱病にかかり、医師と家族の懸命な治療によりかろうじて一命はとりとめたものの、聴力と視力を失い、話すことさえできなくなりました。 目も見えない、聞けない、話せないという「3重苦」という大きな障害を生まれてすぐに背負わされました。彼女はまるで最初動物のような理性のない子どもとして育っていたようです。

もし、彼女が自分の置かれた状況に『なぜ?』ばかりを繰り返していたならば、彼女の人生は決して前に進むことはなかったでしょう。なぜ私は他の人と違って目が見えないのか、耳が聞こえないのか、話せないのか、この原因をいくら訴えても、答えは出ないのです。答えは、この状況を通して神様が成し遂げたいと願われる目的があり、計画があるからなのです。

この3重苦のヘレンの元に、家庭教師として派遣されて来た当時弱冠20歳のアンナ・サリバンという熱心なクリスチャンの愛の教育によって、彼女は変えられていきました。目も、耳も、口もきけない中で、彼女は話すことを覚え、人々に自分の思いを伝えることができるようになりました。20歳でハーバード大学に入学し、多くの人が彼女の生き方に感動しました。希望を与える人になりました。人から見て誰よりも足りないように思える彼女を通して、神様の栄光が表されたのです。ヘレンケラーはまさに、本文の盲人のように、その障害が罪のゆえではなく、神の栄光の為に生かされたのです。

もし、神様の目的が私達にあるというならば、目的には、それに従う意志が必要です。誰の目的ですか?神様の目的であり、計画です。それに従うならば、あなたは従順しなければなりません。

その目的に向かうことに従うのか、従わないのか、それが大切なことなのです。私達の意志と決断にかかっています。イエス様はその目的の為に盲人に重要な使命を課しました。シロアムの池に行って洗いなさい。という主の命令です。

ヨハン教会メッセージ・ゴスペル・スキットを見て、聖書をもっと学んでみよう。

4千人の給食(4)

前編を見る

マルコによる福音書8章1節~13節から(4)

3.あるパンを使って奇跡を起こす

8:5イエスが「パンは幾つあるか」とお尋ねになると、弟子たちは、「七つあります」と言った。

そこで、イエス様は7つのパンがあることに対して多いとも少ないとも言いませんでした。つまり、イエス様は、今そこにあるものを通して奇跡を起こしたいと考えています。私達は、いつも今の自分の状態と見て物足りないと考えるかもしれません。もっと才能があれば、もっと経験があれば良いのにと思うかもしれません。しかし、主の前でそれは必要ありません。私達は今あるそのままの状態で主が用いて下さいます。

今ある時間、今ある才能、今ある物質を通して主の為に捧げてみましょう。

○○兄弟の社会人としての時間があります。社会人は忙しいです。自由な時間は短いです。しかし、短いながらも今ある中で捧げるならば、主は御業を成し遂げて下さると信じます。

大学生としての物質があります。貧乏ながらも今ある中で捧げる。主は増やして下さると信じます。

イエス様は7つのパンで4千人に食べさせました。4千個のパンは必要ではありませんでした。7つだけで十分でした。ユースキャンプで映像を見ましたが、ギデオンの兵士は13万5千人の敵と戦うのに、たった3百人の兵士で奇襲作戦を実行しました。聖書には数の論理は通用しません。もし、少ないながらも人々が心を合わせるならば、大きな働きが起きると言うのが聖書の法則です。今、私達の教会もまだ数は多いとは言えませんが、兄弟姉妹が心を合わせるならば、大きなリバイバルの働きが起こされると信じます。大切なのは、私達が今持っている才能、今持っている時間の中で主に仕えることです。主は決して足りないとも多すぎるとも言いません。主は私達の持っているものを通して働きたいと願われます。

4.感謝の祈り、賛美の祈りを通して奇跡を起こす

8:6そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。8:7また、小さい魚が少しあったので、賛美の祈りを唱えて、それも配るようにと言われた。

五千人の給食の時もそうです。イエス様は感謝の祈り、賛美の祈りを唱えました。どういう人が奇跡に近い場所にいるでしょうか?感謝ができる人です。賛美ができる人です。つまり、良き礼拝者だということです。感謝のできない人には、恵みがないです。神様の恵みから遠ざかる人は、人生の荒波の中で感謝ができなくなる人です。賛美ができなくなる人です。人間の心は、不平不満ばかりになりがちです。思い悩みで心が支配されそうです。しかし、感謝すると心が変わります。新しいものの見方が出来るようになります。試練がないことが幸せではなくて、試練の中でも感謝できることが本当の幸せであります。礼拝は感謝の心で望むことができます。また私達は毎週感謝の心で献金を捧げます。むりやりにでも感謝すると、本当に感謝の心が芽生えます。今日、この場所に来るまで、思い悩みや不平不満の中で来られた兄弟姉妹がいるでしょうか?今、不満を感謝に変えましょう。思い悩みがあれば、今、主に対する賛美に変えましょう。それが奇跡の始まりです。4千人に7つのパンは足りないでしょう。しかし、主イエス様は今あるものに感謝しました。今ある7つのパンに感謝した時に奇跡が起こりました。今、置かれている状況に感謝できる人は奇跡に近い場所にいます。また、主が大きな働きを成し遂げて下さることを信じて賛美できる人も奇跡に近い場所にいます。不平不満を感謝の心に変え、思い煩いを賛美に変えましょう。主の働きが私達の心から始まると信じます。

※お知らせ:ヨハン教会メッセージで恵まれたことを分かち合っています。

4千人の給食(3)

前編を見る

マルコによる福音書8章1節~13節から(3)

もう一つ、気をつけるべきことがあります。彼らは、以前に五千人の給食の奇跡を目の当たりにしていたのである。それにも関わらず、このような発言をする弟子達の姿こそが、私達の姿でもあります。つまり、過去にあった恵みも奇跡もすぐ忘れてしまうということです。色々な試練がありますが、主は私達を導いて下さいます。しかし、新たな試練が起こるたびに、この間は助けてくれたが、今回は違うのではないかと考えるのです。これが問題です。ユースキャンプで大きな恵みがありましたが、そろそろ一カ月経ちます。私達の心はまだ燃えているでしょうか?または、色々な試練の中で、過去の恵みは忘れかけていますか?以前はできると思ったのに、今はやっぱり難しいと感じ始めてはいないでしょうか?人間は、色々な試練に直面すると、神様を見ないで環境ばかりを見始めます。私達の周りの環境を見れば、良い事はありません。否定的なものばかりです。しかし、人は環境を見て、状況ばかりを見てあきらめてしまいます。これは間違った信仰です。多くの人は、問題を通して神様を見ています。違います。私達は、神様の目を通して問題を見なければなりません。どういう人は環境や状況を克服できるでしょうか?常に神様を見上げて歩む人です。常に祈りと御言葉の中で、神様を見て歩む人です。世の中を見れば全てが難しく思えます。しかし、主なる神、全能なる神様を見て歩むならば全てが可能だと信じる事ができます。日々、御言葉と祈りと共に歩むことが大切です。私達も今は、少しずつ朝の祈り会にも来る兄弟姉妹がいます。朝から祈り、朝から御言葉を通して恵みを頂けば一日勝利することができます。祈りの中で否定的な思いを取り除いて、御言葉で確信を頂いて勝利できると信じます。

イエス様が私達に質問します。才能や経験があるかは問題ではありません。今持っているもの、それが大切です。

つづく・・・。

※お知らせ:ヨハン教会連合-ポータルサイトでは、ヨハン教会の活動をお知らせしています。

4千人の給食(2)

前編を読む

マルコによる福音書8章1節~13節から(2)

私自身も、科学者ではなくて、なぜ献身者の道を歩むようになったのかと言えば、こういう事があります。やはり、多くのイエス様を信じて救われていない人々を見て、可哀そうだと思ったからです。イエス様を信じないまま、多くのサラリーマンが疲れて終電に乗ってます。ある人々は飲み会や快楽で仕事のストレスを紛らしています。多くの家庭はイエス様を知らないので沢山の問題が家族の中にあります。そういう人々を見て可哀そうだと思う心が、イエス様の働きの始まりになります。ここにいる皆さんも信仰が成長する中で、隣人に対する憐れみの心は必ず大きくなります。イエス様を信じていない失われた人々にイエス様を知って欲しいという願いも必ず大きくなるでしょう。どうか、そのような隣人に対する憐れみの心を大切にしましょう。人々に主の愛を知って欲しいという心を育てましょう。主が私達を使って下さると信じます。しかし、私達はいつも主の働きをするときに、不信仰と戦わなければなりません。

1.弟子達の不信仰

8:4弟子たちは答えた。「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」

多くの人々は、誰かの為に何かをしたいと考えています。しかし、色々なやらない為の言い訳があります。多くの人々は自分には才能がないから、経験がないからというものです。ある人は環境のせいにします。弟子達もそうでした。この場所はパンを与えるのにはあまりにも田舎すぎる。確かに人々にパンを配りたいけど、どこにもお店もない。これが、弟子達のできないという言い訳です。多くの人々は何かにチャレンジしようとするときに、できる理由を考えるよりは、できない理由を考える方がもっと多いです。なぜかというと、何かをしようとするときにまず自分の足りなさや弱さを見るからです。それで何かをしたいという思いがありながらも自分で考えてあきらめます。またこの日本を考えてみましょう。日本にある色々な教会の先生と話したことはありますが、多くの先生の考えることは、日本でキリスト教がリバイバルするのは難しいということです。日本人の宗教に対する無関心さ、仏教や神道の影響、また人に迷惑をかけることを恐れて伝道が出来ないなどなど、色々な理由を挙げて日本で福音を伝えるのは難しい、リバイバルは難しいと言います。しかし、決してそうではありません。問題なのは、環境や状況よりも私達の信仰が問題です。難しいと決めつける私達の心が問題です。

ユースキャンプに行った人は分かりますけれど、二週間で二千人近い日本人の若者が参加しました。これが本当に大きな希望です。東京教会の金先生が常に、日本はできる、日本でも福音は伝わる、若者も真理を求めているという確信でここまで来ました。私も一回目のユースキャンプに参加した時には100人位でした。しかも東京教会だけの参加者で他の教会からは誰も参加してませんでした。今は普通に善国各地から集まります。しかし、最初は小さいものでした。

多くの日本の教会の先生は日本の福音化は難しい、若者がイエス様を信じるのは難しいと信じてます。それで難しいと信じた通りになります。しかし、金先生は日本でも福音化はできると信じて、若者もイエス様を信じることはできると信じて働いています。実際、できると信じた通りになっています。私達は、できるにしても、できないにしても、自分の信じた通りになるのです。できるかできないかは、環境が決めるのではありません。私達の心と信仰が決めるのです。だから、私達はできないと信じるのではなく、できると信じましょう。全てにおいてです。勉強においても、就職活動や仕事においてもそうです。また、イエス様を伝えるのは難しいと考えていないでしょうか?難しいと信じれば難しくなります。しかし、できると信じて歩めばできるようになります。主が成し遂げて下さるからです。

フィリピ1:6あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。

善い業を始められたのは主です。主が最期まで成し遂げて下さると信じましょう。

つづく・・・。

※お知らせ: ヨハン教会動画コンテンツから、過去の様々なメッセージや賛美・ゴスペルなどを視聴できます。
キリスト教について動画コンテンツを使って学んでみましょう。

4千人の給食(1)

マルコによる福音書8章1節~13節から(1)

おはようございます。今日の本文はマルコによる福音書8章、4000人にパンを食べさせる個所です。以前にイエス様は5つのパンと2匹の魚で5000人に食べさせました。今日の個所でイエス様は再び同じような奇跡を起こそうとされています。

1.人々に対する憐れみの心

マルコ 8:1そのころ、また群衆が大勢いて、何も食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。8:2「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。8:3空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。」

イエス様の働きの原動力に、憐れみの心があります。隣人に対する関心があります。私達はどうでしょうか?イエス様は愛のお方であるので、多くの群衆に対して無関心でいることができませんでした。私達はどうでしょうか?誰か困っている人、悩んでいる人がいると可哀そうだとは思うかもしれません。しかし、ほとんどの場合、そう思うだけで終わりです。隣人に対して可哀そうだと思う事と、それで実際に相手の為に行動することには天と地ほどの違いがあります。多くの場合、私達は隣人を見て可哀そうだとは思うけれども、助けたり、関わりを持つと面倒な事になります。自分自身もトラブルに巻き込まれるかもしれません。道端で人が倒れていたらどうしますか?多くの人は助けたいけど助けると面倒臭い事になると思って通り過ぎます。皆さん、イエス様の働きと言うのは単に奇跡を行い、病気の人を癒すということではありません。イエス様の働きの本質は、実に『隣人に対する憐れみの心』です。これが全ての働きのスタートです。私達は奇跡を行うことはできないでしょう。しかし、隣人に憐れみの心で接する事はできます。イエス様の働きの始まりは関心です。誰かを見て、助けが必要だと思って手を伸ばすこと、これがイエス様の働きです。多くの人は自分のことだけです。しかし、イエス様の弟子は隣人の必要を考えます。教会でも色々なことが言えます。お昼の食事の時間もそうですね。お箸やスプーンが隣にないから取ってあげることも、飲み物が足りなそうだからついであげることも、全てイエス様の働きです。こんな小さなことかもしれませんが、イエス様の働きの始まりは隣人に対する関心です。死んだ人間を生き返らせるとか、水の上を歩くとか、そういう事が大切ではありません。隣人に対して関心を持って傍観者であることをやめると新しい世界が広がると信じます。

フィリピ2:3何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、2:4めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。

イエス様の働きは世界を変えました。しかし、それは奇跡が世界を変えたのではなく、隣人を見て可哀そうだと思い、何かをしようとする憐れみの心です。これが世界を変えました。同じように憐れみの心は私達の人生も変えます。

つづく・・・。

【お知らせ】クリスチャンの生きた証(あかし)を読んでみましょう。ヨハン早稲田キリスト教会の証紹介